遠藤周作研究会

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遠藤周作・年譜

参考 「遠藤周作自作年譜」(「別冊新評・遠藤周作の世界」一九七三年)
    広石廉二編「遠藤周作・年譜 一九二三年〜一九九六年」(「三田文学」一九九七年冬季号)
    山根道公『遠藤周作―その人生と「沈黙」の真実』(朝文社 二〇〇五・四)
    加藤宗哉『遠藤周作』(慶應義塾大学出版会 二〇〇六・一〇)

1923年、 (大正12年)
0歳

三月二十七日、東京巣鴨に生まれる。父常久、母郁(旧姓竹井)の次男。兄は二歳年上の正介。父常久は東大独法科在学中に、二歳年上で上野の東京音楽学校(東京藝術大学)ヴァイオリン学科在学中だった郁と恋愛結婚し、長男をもうけている。父は一九二一年に東大卒業後、第三国立銀行(後安田銀行)、正隆銀行に勤務していた。母は東京音楽学校で安藤幸(幸田露伴の妹)やアレクサンダー・モギレフスキーに師事した音楽家であった。

1926年、 (大正15年・
      昭和元年)
3歳

父の転勤で満州・大連に移る。この年の七月、芥川龍之介自殺。

1929年、(昭和4年)
6歳
大連市の大広場小学校に入学。この頃、いくつかの作品に反映される事になる中国人の手伝いの少年とのふれあいがあった。また母が毎日、朝から夕方までヴァイオリンの練習をし、冬など指から血を流しながらも引き続ける姿を見て子供心に感動し、芸術の価値と厳しさを心に刻む。
1932年、(昭和7年)
9歳

この頃から両親が不和となる。後に作品に描かれる愛犬クロとのふれあいもこの頃。また、担任久世宗一から詩や作文を書くことを奨められ、詩や作文が大連新聞に掲載される。

1933年、(昭和8年)
10歳
父母の離婚により、夏休みに母に連れられて兄とともに帰国。神戸市六甲の伯母(母の姉)の関川家で一夏同居後、西宮市夙川のカトリック教会近くに転居。二学期から六甲小学校に転校。カトリック信者である伯母の勧めで教会に通うようになり、他の子供たちと公教要理を聞く。またこの頃教会に、日本人女性と結婚し、司祭をやめた初老のフランス人がいた。
1935年、(昭和10年)
12歳

三月、六甲小学校卒業。四月、兄と同じ私立灘中学校に入学。母は同月、小林聖心女子学院の音楽教師になり、翌五月二十九日に学院の聖堂で受洗。六月二十三日に、周作も兄とともに夙川のカトリック教会で主任司祭永田辰之助神父より洗礼を受ける。洗礼名ポール(パウロ)。

1939年、(昭和14年)
16歳
中学四年時で、三高を受験するが失敗。西宮市仁川の月見ヶ丘に転居。母はイエズス会士でドイツ人神父ペドロ・ヘルツォークとの出会い、その指導の下、厳しい祈りの生活を始める。また自宅の隣に講堂が建てられ、母による音楽のプライベートレッスンやホームコンサート、ヘルツォーク神父らによる聖書の講話やミサが行われる。周作は学校では不出来な少年で、映画に惹かれて嵐寛寿郎や桑野通子に憧れた。またこの頃、岩波文庫で十返舎一九『東海道中膝栗毛』を読み、弥次・喜多の生き方に共感する。
1940年、(昭和15年)
17歳
三月、灘中学校を一八三人中一四一番の席次で卒業。この春も再度の三高受験に失敗、仁川での浪人生活が始まる。一方、兄正介はこの四月一高を卒業し、東大法学部に入学、世田谷区経堂の父の家に移る。
1941年、(昭和16年)
18歳
春、広島高校等受験するも失敗。四月、上智大学予科甲類(ドイツ語クラス)に入学(同月ヘルツォーク神父が上智大学文学部教授就任)。周作は上智大学予科に籍を置いたまま、旧制高校を目指し仁川で受験勉強を続ける。その間宝塚文芸図書館に通い、洋の東西を問わず名作をむさぼり読んでもいる。二学期には上智大学予科に通い、串田孫一の哲学の講義に感銘を受ける。一二月、校友会雑誌「上智」第一号に、論文「形而上的神・宗教的神」を発表。
1942年、(昭和17年)
19歳
二月、上智大学予科を退学。旧制高校を目指して仁川で再び受験勉強を続ける。姫路、浪速、甲南などの高校受験失敗。九月兄正介は東大を卒業し逓信省へ入ると同時に海軍へ現役入隊した。その兄と相談し母に経済的負担をかけないためという理由で、世田谷区経堂の父の家へ。
1943年、(昭和18年)
20歳
四月、慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、父の家を出る。友人利光松男宅に転がり込んだ後、信濃町のカトリック学生寮白鳩寮に入る。寮の舎監はカトリック哲学者吉満義彦がいた。吉満の紹介で亀井勝一郎を訪ねる。また吉満の影響でジャック・マリタンを、寮の友人松井慶訓の影響でリルケやドイツ浪漫派を読む。後に作品に反映されるハンセン氏病患者慰問(御殿場神山復生病院)の経験もこの頃である。
1944年、(昭和19年)
21歳
この初春、吉満の紹介状を持って堀辰雄の杉並の自宅を訪ねる。堀は三月に喀血し、六月から信濃追分に移るが、その堀の病床を、周作は月に一度ほど訪ねる。堀から、西洋人の神と日本人の神々との問題や、モーリヤックの存在(とその小説論で語られる深層心理の問題)、また作家としての姿勢を学び、強い影響を受ける。戦局が苛烈となって慶應での授業はほとんどなく、勤労動員で川崎の工場に通った。文科の学生の徴兵猶予制が撤廃されたため、夏に徴兵検査を受けるが、肋膜炎を起こした後のため第一乙種で、入隊一年延期となる。戦時下において信仰上の悩みや疑問が強まる。
1945年、(昭和20年)
22歳
三月の東京大空襲で白鳩寮は閉鎖となり、経堂の父の家に戻る。慶應義塾大学文学部予科を修了し、仏文科に進学。入隊延期期限が切れる直前、終戦となる。三田の教室に戻り、一学年上の安岡章太郎を知る。堀辰雄の紹介によって病気療養中の佐藤朔に手紙を書き、杉並区永福町の自宅に呼ばれ、以後西洋史専攻の吉田俊郎とともに自宅で講義を受ける。この講義によってフランスの現代カトリック文学への関心を深めてゆく。十月、吉満義彦が死去。
1947年、(昭和22年)
24歳
十二月、「神々と神と」が神西清に認められ、「四季」(角川書店発行)に掲載。また佐藤朔の推挙で「カトリック作家の問題」を「三田文學」十二月号に発表する。
1948年、(昭和23年)
25歳
三月、慶應義塾大学仏文学科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。神西清の推挙で「堀辰雄論覚書」を「高原」三、七、十月号に発表。生活はヘルツォーク神父が編集長を務める「カトリック・ダイジェスト」誌の編集手伝いと、鎌倉文庫の嘱託としての俸給でまかなった。十月に「此の二者のうち」、十二月に「シャルル・ペギイの場合」を「三田文學」に発表。三田文學の同人になって、丸岡明、原民喜、山本健吉、柴田錬三郎、堀田善衛等の先輩を知り、親交を深める。なおこの年、小林聖心女子学院からの依頼で戯曲「サウロ」を書き、その高校三年生によって卒業劇として演じられる。吉田俊郎自殺。先輩カトリック詩人野村英夫病死。
1949年、(昭和24年)
26歳
野村英夫を追悼して、「モジアリニの少年」(「高原」一月号)、「野村英夫氏を悼んで」(「三田文學」二月号)、「野村英夫氏の思ひ出」(「望楼」三月号)と、それぞれ発表。病臥中の堀辰雄に協力を求められ、野村の遺稿の整理と「野村英夫詩集」の編集に携わる。この年、文芸評論を盛んに発表。「神西清」(「三田文學」五月号)、「ジャック・リヴィエール―その宗教的苦悩」(「高原」五月号)、「精神の腐刑―武田泰淳について」(「個性」十一月号)、「ピエール・エマニュエル」(「世紀」十二月号)など。
1950年、(昭和25年)
27歳
昨年から続いて文芸評論を盛んに発表。「フランソワ・モウリヤック」(「近代文學」一月号)、「聖年について」(「人間」二月号)、「立見席から」(「近代文學」三、四月合併号)、「誕生日の夜の回想」(「三田文學」六月号)。六月四日、戦後初のフランスへの留学生として、三雲夏生、昂兄弟とともにフランス船マルセイエーズ号で横浜港を出港。留学の目的は現代のカトリック文学の研究。同じ四等船客に、フランスのカルメル会修道院で修行を目指す井上洋治がいた。七月五日、マルセイユ到着。二ヶ月間をルーアンの建築家であるロビンヌ家に過ごし、九月、リヨンへ。リヨン・カトリック大学近くの学生寮クラリッジ寮に入り、カトリック大学の聴講生の手続きをとる。またリヨン国立大学のルネ・バディ教授の下で仏現代カトリック文学の研究を目指し、翌年十二月には「フランソワ・モーリヤックの作品における愛と吝嗇」のテーマで学位論文作成の承認を得る。
1951年、(昭和26年)
28歳
三月、アルデッシュ県のフォンスに行き、抗独運動者が同胞のフランス人を虐殺し捨てたという井戸を見る。リヨンに戻り、原民喜自殺を知らせる手紙と遺書を受け取り、衝撃を受ける。八月、モーリヤック『テレーズ・デスケルー』の舞台、ランド地方を徒歩で旅行。ボルドー近郊ブリュッセ村のカルメル会修道院で修行中の井上洋治を訪ねる。フランスから編集大久保房男の厚意で、寄稿したエッセイ、「恋愛とフランス大学生」(二月号)、「フランス大学生と共産主義」(五月号)、「フランスにおける異国の学生たち」(後、小説として「フォンスの井戸」と改題、九月号)が「群像」に掲載される。また「カトリック・ダイジェスト」に「赤ゲットの佛蘭西旅行」の連載を十一月から開始。十二月、パリに滞在し「エスプリ」誌と繋がりを持つ。この月より翌月にかけて血痰の出る日が続く。
1952年、(昭和27年)
29歳
「四月、イタリア国境近くのアルプス山脈のふもとの村ソリエールに行き、春休みを過ごす。リヨンに戻ると血痰が出、医師から三ヶ月の療養を命じられる。六月、多量の血痰を吐き、九月まで、スイスとの国境近くのコンブルーの国際学生療養所で過ごす。そこに保養に来ていたソルボンヌ大学生やパリ高等師範学校の学生と親しくなり、パリにくることを勧められる。九月下旬リヨンに戻り喀血。十月、パリに移り日本人留学生のための宿舎、日本館に居を定める。ソルボンヌ大学に登録するが、大学には通わず、コンブルーで知り合った友人たちとの勉強会に参加。十一月、リヨンでネラン神父が宣教師として日本に立つのを見送り、パリに戻る。十二月、検診の結果、肺に影が発見され、ジュルダン病院に入院。
1953年、(昭和28年)
30歳
帰国を決め、一月八日退院。翌日、結婚まで考えたソルボンヌ大学哲学科の学生フランソワーズ・パストルとマルセイユまでの滞仏最後の三泊四日の旅行。十二日、日本郵船の赤城丸でマルセイユを離れ、二年半の留学を終える。二月、神戸港着、帰国。母に付き添われて東京に戻り、父の経堂の家に落ち着く。帰国後一年は体調が回復せず、気胸療法に通いながら、寝ていることが多かった。三月、原民喜を偲ぶ「花幻忌」に出席し、「三田文學」の先輩たちのとの交流が再開される。四月、「カトリック・ダイジェスト」編集長となり、同誌に「続・赤ゲットの佛蘭西旅行」を連載する(〜十二月号未完)、五月、堀辰雄死去。七月、留学中のエッセイを集めた処女エッセイ集『フランスの大学生』を早川書房より刊行。十二月、「カトリック・ダイジェスト」終刊。同二十九日、母郁が脳溢血で突然に死去(58歳)。
1954年、(昭和29年)
31歳
四月、文化学院の講師になる。この頃、奥野健男の勧めで、「現代評論」に参加。同誌に「マルキ・ド・サド評伝」を発表(六、十二月号)。また安岡章太郎を通して、谷田昌平とともに「構想の会」に入り、吉行淳之介、庄野潤三、近藤啓太郎、進藤純孝、小島信夫等を知る。七月、最初の評論集『カトリック作家の問題』を早川書房より刊行。十一月、「アデンまで」を「三田文學」に発表。なおこの年から「第三の新人」の活躍始まる。
1955年、(昭和30年)
32歳
四月、服部達、村松剛と三角帽子の名のもとにメタフィジック批評を「文學界」で提唱(九月まで連載)。七月、「白い人」(「近代文學」五、六月号)により第三十三回芥川賞受賞。九月、慶應仏文の後輩、岡田順子と結婚。その後父の家に同居するが、十一月に同じ経堂内で転居。「黄色い人」を「群像」十一月号に発表。十二月、処女短篇集『白い人・黄色い人』を講談社より刊行
1956年、(昭和31年)
33歳
一月、服部達自殺、衝撃を受ける。初めての長篇「青い小さな葡萄」を「文學界」に連載(六月まで)。六月、長男龍之介誕生。この頃世田谷松原に転居。この年の四月から一年、上智大学文学部非常勤講師になる。
1957年、(昭和32年)
34歳
三月、長篇の準備のため福岡に取材旅行(九州大学医学部など)。神西清死去。六月、「海と毒薬」を「文學界」に発表(八月、十月と連載) 。この作品が高い評価を得て文壇的地位を確立する。夏、梅崎春生の紹介で蓼科に別荘を借りて過ごす。十二月、「文學界」に戯曲「女王」を発表(同月劇団「四季」により俳優座劇場で上演)。この年、ヘルツォーク神父、還俗。後の作品に影響を与える。
1958年、(昭和33年)
35歳
一月、井上洋治帰国。四月、成城大学文学部非常勤講師となり「フランス文学論」を一年間講義。信仰的連載エッセイ「聖書のなかの女性たち」を「婦人画報」に開始(翌年五月まで)。「海と毒薬」を文藝春秋社より刊行。この年より夏は軽井沢にて仕事する。十月、ソ連タシケントで開かれるアジア・アフリカ作家会議に、伊藤整、野間宏、加藤周一らと出席し、モスクワを廻って帰国。十一月、長篇の取材のため鹿児島桜島を訪れる。佐伯彰一編集の文芸誌「批評」の同人となる。この年、『海と毒薬』により第五回新潮社文学賞、第一二回毎日出版文化賞受賞。NHKテレビに書いた台本「平和屋さん」が芸術祭奨励賞受賞。暮れに目黒区駒場に転居。
1959年、(昭和34年)
36歳
一月、長篇「火山」を「文學界」に連載(十月号まで)。二月、最初の切支丹小説「最後の殉教者」を「別冊文藝春秋」に発表。劇団「同人会」のために戯曲「親和力」を書下ろす。三月、初のユーモア長篇小説「おバカさん」を「朝日新聞」に連載(八月まで)。「サド伝」を「群像」九月、十月号に発表。十一月、サド研究の資料不足の補充と実地検証のため、順子夫人を伴い二度目の渡仏。二ヶ月ほど滞在してサド研究家ジルベール・レリイとピエール・クロソウスキイに会い、サドの居城ラ・コストなどゆかりの地を訪ねる。この月、フランソワーズ・パストルとも再会。その後、スペイン、イタリア、ギリシャを巡り、エルサレムを巡礼して、エジプトを廻って翌年一月に帰国。
1960年、(昭和35年)
37歳
三月、井上洋治のカトリック司祭叙階を喜び、ミサに使う聖杯を贈る。四月、肺結核再発で東大伝染病研究所病院に入院。六月、病床で二作目のユーモア小説「ヘチマくん」を「河北新報」他地方紙に連載(十二月まで) 。夏には一時退院して軽井沢の愛宕山の別荘を借りて療養。九月、東大伝研病院に再入院。十二月、慶應義塾大学病院に転院。
1961年、(昭和36年)
38歳
一月七日、一度目の肺の手術、二週間後に二度目の手術、失敗に終る。この頃、切支丹時代に関する本を濫読。六月、一時退院して自宅療養、夏を軽井沢の貸別荘に過ごす。この間の八月、澁澤龍彦訳サド『悪徳の栄え(続)』が猥褻文書として起訴された事件で、特別弁護人として出廷。九月、慶應義塾大学病院に再入院。十二月、危険率の高い三度目の手術。手術の前日紙の踏絵を見る。手術は六時間に及び、一度心臓が停止したが、成功する。多くの作品で描かれる九官鳥が身代わりのように死ぬ事件もこのときである。
1962年、(昭和37年)
39歳
五月、森繁劇団による『おバカさん』明治座上演(矢代静一劇化・演出)。同月、慶應義塾大学病院退院。自宅療養生活を送る。夏、軽井沢町鳥井原に別荘を借りて過ごす。この年は体力も回復せず、短いエッセイを書くのみ。自宅療養の戯れに狐狸庵山人と雅号を付け、十月から翌年の十月まで絵日記「狐狸庵日乗」を書く。
1963年、(昭和38年)
40歳
一月、病床復帰後の初の長篇「わたしが・棄てた・女」を「主婦の友」に連載(十二月まで)。三月、町田市玉川学園に転居。七月、「わたしが・棄てた・女」の取材に御殿場神山復生病院を再訪、井深八重に会う。この夏は軽井沢町野沢原の別荘で過ごす。十月、「午後のおしゃべり」を「芸術生活」に連載(翌年十二月号まで)。後にこのエッセイを単行本化する際に「狐狸庵閑話」と解題する。十二月、三浦朱門の受洗に際して代父となる。
1964年、(昭和39年)
41歳
二月、二度目の渡仏体験を題材にした長篇「爾も、また」を「文學界」に連載(翌年二月号まで)。四月、長崎へ旅行。大浦天主堂近くの「十六番館」で黒い足指の痕のついた踏絵を見る(「午後のおしゃべり」「芸術生活」六月号に発表)。この夏も軽井沢町野沢原の別荘で過ごす。
1965年、(昭和40年)
42歳
一月、長篇「満潮の時刻」を「潮」に連載(十二月号まで)。四月、新潮社の書下ろし長篇の取材のため、井上洋治、三浦朱門とともに長崎、島原、平戸を訪ねる。七月、『狐狸庵閑話』を桃源社より刊行。夏から初秋まで軽井沢の六本辻角の元病院を別荘として借りて過ごし、書下ろし長篇を脱稿。初稿に付けられたタイトルは「日なたの匂い」だったが新潮社出版部の提案により「沈黙」と変わる。十月、病床体験を主に扱った短篇集『哀歌』を講談社より刊行。この年。TBSテレビに書いたドラマ台本「わが顔」が芸術祭奨励賞受賞。
1966年、(昭和41年)
43歳
三月、書下ろし長篇『沈黙』を新潮社より刊行。純文学作品にもかかわらずベストセラーになるが、キリスト教会の一部では批判され、禁書扱いにされた。四谷の教会で催された公開討論会では、ただ一人で多数を相手に論戦する。四月、成城大学文学部非常勤講師になり、以後三年間「小説論」を担当。五月、『沈黙』の姉妹篇ともいえる戯曲「黄金の国」が芥川比呂志演出で劇団「雲」により平河市都市センターホールで上演。夏は軽井沢の六本辻で過ごす。八月、「三田文學」が四年半ぶりに復刊され、江藤淳、北原武夫らとともに編集委員になる。十月、『沈黙』により第二回谷崎潤一郎章受賞。)
1967年、(昭和42年)
44歳
五月、日本文芸家協会理事に選ばれる。この夏も軽井沢の六本辻にて過ごす。八月、以前から親交のあったポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待でポルトガルに行き、騎士勲章を受け、アルブフェーラでの聖ヴィンセント(雲仙の拷問に耐えて長崎で殉教)の三百年祭で記念講演をする。リスボン・パリ・ローマを廻り、九月に帰国。
1968年、(昭和43年)
45歳
一月、母とヘルツォーク神父を題材にした小説「影法師」を「新潮」に、母を題材にした「六日間の旅行」を「群像」に発表。一年間の約束で新年号より「三田文學」の編集長を引き受ける。前年秋から学生らを集めて編集準備に入り、編集号は一月号から十二月号まで。三月、素人劇団「樹座」を結成、座長となり、紀伊國屋ホールで第一回公演「ロミオとジュリエット」を行い、出演。五月、「聖書物語」を「波」に連載(一九七三年六月号まで五年間に渡り連載され『イエスの生涯』に結実してゆく)。この春、日本テレビ「こりゃアカンワ」に連続出演。この夏から、中軽井沢の千ヶ滝に建てた別荘で過ごす(近くに北杜夫、矢代静一、中村真一郎、大原富枝らの別荘があり交遊する)。
1969年、(昭和44年)
46歳
一月、母を題材にした小説「母なるもの」を「新潮」に発表。矢代静一受洗に際して代父となる。新潮社書下ろし長篇の準備のため、三田文學の後輩を連れてイスラエルに行き、新約聖書の背景を辿り、一ヵ月後の二月帰国。三月、劇団樹座第二回公演「ハムレット」に出演(紀伊國屋ホール)。四月、アメリカ国務省の招待でアメリカに行く(五月帰国) 。九月、戯曲「薔薇の館」初演(芥川比呂志演出・劇団雲、都市センターホールにて)。この年、「定本モラエス全集」編集によりポルトガル大使からヘンリッケ勲章を受ける。映画「私が棄てた女」(浦山桐郎監督)封切り(一場面だけ出演)。
1970年、(昭和45年)
47歳
三月、MBSテレビドラマ「大変だァ」に毎回ゲスト出演。大阪万博で、カトリックとプロテスタントの初の合同事業、基督教館のプロデューサーを阪田寛夫、三浦朱門とともにつとめる。四月、一ヶ月間、矢代静一、阪田寛夫、井上洋治らとイスラエルに旅行。十月、大阪万博での仕事に対し、ローマ法王庁からシルベストリ勲章(騎士勲章)を阪田、三浦とともに受ける。
1971年、(昭和46年)
48歳
一月、「群像の一人(知事)」を「新潮」に、「群像の一人(蓬売りの男)」を「季刊藝術」に発表。『死海のほとり』へと結実してゆく、イエスをめぐる群像を描いた連作が開始される。十一月、映画「沈黙」(篠田正浩監督)封切り。戯曲「メナム河の日本人」準備のため、タイのアユタヤを取材し、インドのベナレスによってガンジス河を訪れ、イスタンブール、ストックホルム、パリなどを廻って、帰国。
1972年、(昭和47年)
49歳
三月、ハイヤット神父の宣教番組「心のともしび」の企画で、三浦朱門、曽野綾子らとともにローマを訪れ、法王パウロ六世に謁見。その後書下ろし長篇(『死海のほとり』)の仕上げのためイスラエルに行き、四月に帰国。六月、有吉佐和子らと文部省の中教審委員に就任。七月、渋谷区南平台のマンションの一室を仕事部屋とする。十一月、日本文芸家協会常任理事に就任。この年『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がスウェーデン、ノルウェー、フランス、オランダ、ポーランド、スペインで翻訳出版される。
1973年、(昭和48年)
50歳
三月、「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」という企画で、一ヶ月旅行。六月、<巡礼>という小説に<群像の一人>と題して発表された連作短篇七篇を組み込んだ書下ろし長篇『死海のほとり』が新潮社より刊行。十月、「波」に連載した「聖書物語」を全面的に加筆、改題した『イエスの生涯』を新潮社より刊行。同月、戯曲「メナム河の日本人」初演(芥川比呂志演出・劇団雲、新橋ヤクルトホール)。十二月、「別冊新評」で「全特集 遠藤周作の世界」。この年、ぐうたらシリーズ(『ぐうたら人間学』『ぐうたら交友録』『ぐうたら愛情学』)が百万部を突破。狐狸庵ブーム。「違いのわかる男……」のテレビCMにも出演。
1974年、(昭和49年)
51歳
年初の冬、支倉常長の取材で宮城県牡鹿半島月の浦港を訪ねる。五月、仕事場を渋谷区代々木深町に移す。七月、『遠藤周作文庫』(全五十巻別巻一)の刊行が講談社から始まる(一九七八年二月まで)。十月、支倉常長の取材でメキシコへ。同月、戯曲「喜劇新四谷怪談」初演(栗山昌良演出・劇団青年座、渋谷西武劇場)。この年『おバカさん』がイギリスのピーター・オウエン出版社から出版される。
1975年、(昭和50年)
52歳
年初の冬、支倉常長の取材で宮城県の旧支倉村を訪ねる。二月、『遠藤周作文学全集』(全十一巻)が新潮社より刊行(十二月に完結)。同月、日本航空の招待で、阿川弘之、北杜夫とロンドン、フランクフルト、ブリュッセルを廻り、在留日本人のために講演。八月、遠藤が紹介した井上洋治神父から受洗する高橋たか子の洗礼式に出席。
1976年、(昭和51年)
53歳
一月、評伝「鉄の首枷―小西行長伝」を「歴史と人物」に連載(翌年一月号まで)。雑誌「面白半分」の編集長を引き受ける(六月号まで)。六月、小西行長の取材で韓国と対馬に行き、豊浦、釜山、熊川、慶州などを廻り同月帰国。九月、遠藤が紹介した井上洋治神父から受洗する大原富枝の洗礼式に出席。同月、ジャパン・ソサエティの招待でアメリカに行きニューヨークで講演。十月、文芸誌「季刊創造」(武田友寿編集)の発刊に際し編集顧問となる。十一月、『沈黙』がポーランドのピエトゥシャック賞を受賞し、十二月に授賞式出席のためワルシャワに行き、その折、アウシュヴィッツ収容所を訪れる。
1977年、(昭和52年)
54歳
一月、芥川賞選考委員になる。二月、劇団樹座第五回公演オペラ「カルメン」(紀伊國屋ホール)に出演。三月、三浦朱門らと編集に携わる『キリスト教文学の世界』(全二十二巻 主婦の友社)刊行始まる。五月、兄正介、食道静脈瘤破裂で死亡(五十六歳)。『イエスの生涯』の続編となる「イエスがキリストになるまで」を「新潮」に翌年五月号まで連載。翌年九月これを『キリストの誕生』と改題して刊行。この年、『イエスの生涯』がイタリアの出版社クエリニアナより刊行される。られるか〈対談集〉』(講談社)、 『愛情セミナー』(集英社)
1978年、(昭和53年)
55歳
一月、評伝「銃と十字架―有馬神学校」を「中央公論」に連載(十二月号まで)。三月、劇団「樹座」第六回公演の「トニーとマリア」で初のミュージカルを上演。六月、『イエスの生涯』(イタリア語版)で国際ダグ・ハマーショルド賞受賞。この年、『わたしが・棄てた・女』がポーランドのパックス出版社より、『火山』がイギリスのピーター・オウエン出版社より、『イエスの生涯』がアメリカのポーリスト出版社より刊行される。
1979年、(昭和54年)
56歳
二月、『キリストの誕生』により第三十回読売文学賞の評論・伝記賞を受賞。同月、タイ・アユタヤへ山田長政の取材のため旅行。また女子パウロ会の布教雑誌「あけぼの」に協力し、以後十年間に及ぶ連続対談開始。三月、吉行淳之介とともに芸術院賞受賞。阿川弘之とともに香港からクイーン・エリザベス二世号で中国・大連へ行く。四月、翻訳出版の件でロンドンに行き、パリ、ローマを廻り、同月帰国。七月、「王国への道 山田長政」を「太陽」に連載開始(翌々年2月号まで)。九月、大連再訪の印象を描いた「クワッ、クワッ先生行状記」を「小説現代」に発表。十二月三十一日の夜、書下ろし長篇『侍』脱稿。この年、『口笛をふく時』が、イギリスのピーター・オウエン出版社より刊行される。
1980年、(昭和55年)
57歳
一月、「面白半分」臨時増刊号で遠藤周作特集「こっそり、遠藤周作」。三月、上顎癌の疑いで慶應義塾大学病院に入院し、蓄膿症の手術を受け、さらに癌研で組織検査を行い、癌ではないと判明するが、退院後も健康の不調が続く。同月、遠藤家に手伝いに来ていた鈴木友子が骨髄癌で同病院に入院、死去(二十五歳)。四月、書下ろし長篇『侍』を新潮社より刊行。五月、劇団樹座を率いてニューヨークのジャパン・ソサエティでミュージカル「カルメン」を上演。十一月、「女の一生」の連載を「朝日新聞」に開始(翌々年二月まで)。十二月、『侍』により第三十回野間文芸賞受賞。この頃、素人父親コーラス「コール・パパス」結成。
1981年、(昭和56年)
58歳
前年より体調がすぐれず、高血圧、糖尿病、肝臓病に苦しむ。四月、マザー・テレサの来日を前に「マザー・テレサの愛」を「読売新聞」に掲載。この年、芸術院会員になる。また、遠山一行らと「日本キリスト教芸術センター」を原宿のマンションのワンフロアーをつかって設立。この時期から特に、のちの『私の愛した小説』、『スキャンダル』、『深い河』へと連なる深層意識と悪の問題への関心が強まり、そうした短篇を多く書き出す。原作『闇のよぶ声』の映画化「真夜中の招待状」(野村芳太郎監督)封切り。
1982年、(昭和57年)
59歳
一月、オペラ「黄金の国」(青島広志作曲)初演。四月、自ら持ち込んだ原稿「患者からのささやかな願い」が「読売新聞(夕刊)」に六回にわたって掲載され、そののちの<心あたたかな病院運動>へとつながる。六月、遠藤責任編集の『モーリヤック著作集』(全六巻)が春秋社より刊行開始。「愛の砂漠」、「テレーズ・デスケルー」の翻訳と第三巻の解説を担当。この年、「キリスト教芸術センター」において、キリスト教関係をはじめ、仏教や深層心理学などさまざまな分野の専門家を呼んで話を聞く会(月曜会)を始める。『侍』がイギリスのピーター・オウエン出版社より刊行される。
1983年、(昭和58年)
60歳
五月、東京・青山の平田医院で痔の手術を受け、即日退院。七月、囲碁クラブを設立し、「宇宙棋院」と命名。十月、ユングの深層心理学や仏教のアーラヤ識など無意識の問題に触れる「宗教と文学の谷間で」を「新潮」に連載開始(翌年十一月号まで。後の八五年に『私の愛した小説』と改題して刊行)。
1984年、(昭和59年)
61歳
五月、第四十七回国際ペン東京大会の全体会議で世界の文学者を前に「文学と宗教―無意識を中心にして」と題して講演。六月、「にっかつ芸術学院」(のちに日活芸術学院と改称)の二代目学長に就任。<心あたたかな病院運動>キャンペーン報告記として「こんな医療がほしい」を「読売新聞(夕刊)」に四日間連載。
1985年、(昭和60年)
62歳
四月、イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅し、ロンドンのホテル・リッツで偶然にグレアム・グリーンと出会い、語り合う。六月、日本ペンクラブの第十代会長に選任される。同月、アメリカに渡り、サンタ・クララ大学から名誉博士号をうける。カリフォルニア大学のジャック=マリタン&トーマス=モア研究所で講演。
1986年、(昭和61年)
63歳
二月、代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。三月、書下ろし長篇『スキャンダル』を新潮社より刊行。五月、劇団樹座の第二回海外公演のためロンドンに渡り、ジャネッタ・コクラン劇場でオペラ「マダム・バタフライ」を上演。十月、映画「海と毒薬」(熊井啓監督)封切り。この作品は第十三回ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞。十一月、台湾の輔仁大学の「宗教と文学の会」で講演。
1987年、(昭和62年)
64歳
一月、芥川賞選考委員を辞任。五月、エッセイ「花時計」の連載を「産経新聞」に開始(九五年三月まで三七五回に及び毎週連載される。『変るものと変らぬもの』、『心の砂時計』、『心の航海図』、『最後の花時計』にまとめられ、文藝春秋社より刊行)。アメリカに渡りジョージタウン大学から名誉博士号を受ける。夏、北里大学病院に前立腺治療のため入院し、手術。十月、韓国文化院の招待で、訪韓。十一月、<『沈黙』の碑>が長崎県外海町(現長崎市)に完成し、除幕式に夫妻で出席(碑に刻まれた文字は「人間が/こんなに/哀しいのに/主よ/海があまりに/碧いのです」)。十二月、目黒区中町に新築した家に転居。同月、加賀乙彦の受洗に際し代父となる。
1988年、(昭和63年)
65歳
一月、戦国三部作の始まりとなる「反逆」を「読売新聞」に翌年2月まで連載開始。この頃たびたび愛知県の木曽川周辺を訪れる。四月、ロンドンへ行き、同月帰国。五月、山本健吉死去。日本文芸家協会葬で弔辞を読む。六月、安岡章太郎の受洗に際し代父となる。八月、国際ペンクラブのソウル大会に日本ペンクラブ会長として出席、九月帰国。十一月、文化功労者に選ばれる。同月、母方の遠祖出身地である岡山県小田郡美里町に文学碑が完成し、除幕式に出席。この年、『スキャンダル』がイギリスのピーター・オウエン出版社より刊行される。
1989年、(昭和64年・平成元年)<
66歳
四月、日本ペンクラブ会長を辞任。歴史小説の取材で琵琶湖畔などを訪れる。十二月、父常久、死去(九三歳)。この年、「老人のための老人によるボランティア」を提唱し、ボランティアグループ「銀の会」を発足。『留学』がイギリスのピーター・オウエン出版社より刊行される。
1990年、(平成2年)
67歳
二月、書下ろし長篇取材のためにインドに渡り、ニューデリーの国立博物館でチャームンダー像を見、ベナレスを取材し、同月帰国。七月、仕事場を目黒の花房山に移す。八月、創作日記(没後、『「深い河」創作日記』として刊行)を書き始める。九月、戦国三部作の最後の「男の一生」を「日本経済新聞」に連載(翌年九月まで)。十月、アメリカのキャンピオン賞受賞。
1991年、(平成3年)
68歳
一月、三田文学会理事長に就任。五月、アメリカに渡り、クリーブランドのジョン・キャロル大学で行われた「遠藤文学研究会」に出席、記念講演をし、同大学より名誉博士号を受ける。帰途、ニューヨークによって『沈黙』映画化の件でマーチン・スコセッシ監督と面談。九月、本格的に『深い河』の執筆に入る。同月、カトリック東京区百周年記念で中央会館にて講演。十二月、台湾に渡り、輔仁大学から名誉博士号を受ける。
1992年、(平成4年)
69歳
九月、書下ろし長篇小説「河」(のちに「深い河」と改題)の初稿を脱稿。上智大学のルネッサンス研究所の国際会議の開会式で「キリシタンと現代」の題で講演。また同月、腎不全と診断される。十月、順天堂大学付属病院に検査入院。糖尿病の進行による眼底出血が見られる。十一月、退院。書下ろし長篇の推敲に取り組む。
1993年、(平成5年)
70歳
五月、順天堂大学付属病院に再入院。腹膜透析のための手術を受ける。その後三年半、入退院を繰り返す闘病生活が続く。六月、書下ろし長篇『深い河』が講談社から刊行される。当時心不全で危篤であったのを乗り越え、病床で手にする。十一月、オペラ「沈黙」初演(松村禎三作曲、日生劇場)
1994年、(平成6年)
71歳
一月、最後の歴史小説「女」を「朝日新聞」に十月まで連載。同月、『深い河』により第三十五回毎日芸術賞を受賞。四月、『深い河』がイギリスのピーター・オウエン出版社より刊行される(英訳版十三作目)。インディペンデント新聞主催の外国小説賞の最終候補に残る。四月、『わたしが・棄てた・女』をミュージカルにした「泣かないで」(音楽座)の初演が東京芸術劇場他で行われる。五月、村松剛死去。六月、吉行淳之介死去。この頃より薬害による痒みに苛まれるが、「「ヨブ記」を書く」という決意から耐え抜く。
1995年、(平成7年)
72歳
一月、「黒い揚羽蝶」を「東京新聞」などの地方紙で連載開始(三月二十五日で連載中止)。二月、映画「深い河」(熊井啓監督)の零号試写を五反田イマジカで観る。四月、順天堂大学付属病院に入院。三田文学会理事長を退任。五月、『遠藤周作歴史小説全集』(全七巻)が講談社より刊行開始(翌年七月に完結)。また、「ニューヨークタイムス」の書評で『深い河』が取り上げられる。六月、再度退院。映画「深い河」封切り(モントリオール世界映画祭でエクメニカル審査委員賞受賞)。八月、劇団樹座第二十回記念公演で座長挨拶。九月、脳内出血を起こし、順天堂大学付属病院に緊急入院。十月、『沈黙』を戯曲化した「沈黙 SILENCE」が劇団昴とミルウォーキー・レパートリー・シアターの日米共同製作で、日米で上演される。十一月、文化勲章受章。十二月、退院。
1996年、(平成8年)
73歳
四月、慶應義塾大学病院に検査入院し、同月退院。六月、再入院し腹膜透析から血液透析に切り替える。奇跡的に二週間ほどよい状態が続き、絶筆となった「佐藤朔先生の思い出」を口述筆記。九月二十九日午後六時三十六分、肺炎による呼吸不全により、病室で死去。十月二日、麹町の聖イグナチオ教会で葬儀ミサ・告別式。ミサの司式は井上洋治神父、弔辞は安岡章太郎、三浦朱門、熊井啓。参列者は四千人に及んだ。

(小嶋洋輔)

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